2018/12/17号外


臨時総会 23日に

 

 本学法学部学生会執行部13日の「クラス委員」による動議で延期されていた後期総会について、臨時総会を21()に開くことを決めた。16日に「クラス委員」にメールで通知した。同執行部は17日中に正式に公示するという。

 13日の総会に関しては、同執行部が「学生会解散」に関する学生会規約の改正案を提出し、それに対抗する法学部生有志提出の特別決議を併せ議論が交わされたが、法学部の語学クラス、ゼミから選出され、総会で議決権を持つ「クラス委員」による動議で採決が延期されていた。

 13日の後期総会で同執行会執行部は人員不足で組織運営が難しいとして、同学生会規約の改正を提案していた。これに対し学生主体の自治組織の消失に抗議する法学部生有志が改正案に対抗する特別決議案を提出し、同総会は「学生会解散」の賛否をを問う展開となっていた。

 しかし、両案の採決直前に「十分な審議がなされていない」ことを理由に「クラス委員」が審議延期の動議を賛成多数で成立させたため、同執行部は大体の日程を検討していた。

 13日時点から、法学部の「クラス」数は120、そのうち3分の1以上の出席で出席で総会開催、2分の1以上の出席で改正案の議決が可能になる。

 臨時総会は、21日(金)1845分から8号館地下B101教室にて。旧停学中でない限り留学生を含め法学部に学籍があれば審議傍聴ができる。傍聴者に投票権はないが、審議中の質問は可能。

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 総会での投票権を持つ「クラス委員」は、当日、本人の代わりに代理人を指名できる。

 

 代理人を指名する場合、「クラス委員」と代理人両名の所属、氏名、学籍番号を学生会執行部に通告する必要がある。通告方法は委任状の他にメールでも可能。代理人として指名できるのは本人と同じ「クラス」に所属する法学部生。



法学部生寄稿

 1214日の法学部学生会の総会が終わったあと、過労からなのか、会長が壇上で倒れた。意識は辛うじてあったものの周りの学生が急いで事務所に連絡し、警備員や事務員が集まり救急車が来た。騒然となる中、学生会の誰かの「ここは大人に任せよう」という声がした。

 大学の学生会とは何なのか。高校等の生徒会との違いは何か。たしかに、学生の中から学生が選ばれ予算を扱ったりするのは高校の頃の生徒会と同じに見える。しかし、大学生が自立した個人であるということが鍵であると思う。高校までは、生徒と学校は対等な関係ではない。幼く自分を律せない「生徒」は学校に守られ規則で縛られ、受動的な立場に甘んずるほかない。この状況の是非はともかく、そのような認識が一般的である。しかし、大学生はそうではない。学生は自分で授業も選べるし授業に出るかどうかも自分で決められる。髪の色も自由だし制服も無い。それは学生が自立した個人、つまり大人であるからだ。大人である大学生は、大学に支配されることはない。

 しかし大学と学生の間には大きな力の差がある。学生はその身分を大学に依存していて、学費や履修、学内環境等において重要な利害関係を持つのに、学生個人は無力である。したがって学生は全体で自治的組織を構成し、その代表を選ぶことで学生の権利を守ってきたのである。かつての東北大学事件においても「学生は、大学における不可欠の構成員として、学問を学び、教育を受けるものとして、その学園の環境や条件の保持およびその改変に重大な利害関係を有する以上、大学自治の運営について要望し、批判し、あるいは反対する当然の権利を有し、教員団においても、十分これに耳を傾けるべき責務を負う」と判示されている(仙台高判昭和46528判時64555頁)。早稲田大学ではその役割を学部自治会が務めてきた。しかしそこにセクトが巣食い、学生の支持を失ってほとんどの自治会は消滅状態に陥り、法学部の自治会がセクトを徹底的に排除して「法学部学生会」と改名してかろうじて残っているのみであった。それも終わりなのかも知れない。先日の総会で学生会執行部は自ら解散を訴えた。

 学生会の解散の是非は、ここでは置いておく。しかし、学生の関心が薄いことは解散の是非にもまして問題であり、このような状況に陥った主な原因であると思う。先日の学生会の総会は、百二十人のクラス委員がいるところ五十数人しか集まらず、総会の開会はできたものの決議をする人数に達していなかった。多くの学生が興味を失っているからだろう。たしかに学生会執行部の広報が足りていなかったのは事実であると思う。しかし、学生たちの中に「自分たちは大人じゃない」という思いがどこかにあって、誰かがどうにかしてくれることを期待しているのではないだろうか。

 大学生は大人である。大人という自立した個人であるならば、自分たちの共同体の未来を自分たちで決めるべきである。学生会を解散することになるにせよ、しないにせよ、他の誰でもない我々学生が決めることであるということを意識するべきだろう。これは我々学生の問題だ。

 

(日軒社)